タイ王国史年表
| 佛年 (西暦) |
タイ | 中国 | 日本 | |
|---|---|---|---|---|
| 2545 (2002) | - | - | - | |
| 石器時代 | 旧石器時代 | - | - | |
| 中石器時代 | - | - | ||
| 新石器時代 | - | - | ||
| 金属器時代 | 青銅器 | - | - | |
| 鉄器時代 | 第一期:B.C.5600~B.C.2500 ウドーンタニー「バーンチエン遺跡」 | - | - | |
| 第二期:B.C.3200~B.C.2500 | - | - | ||
| 第三期:B.C.2220~B.C.2060 | - | - | ||
| 第四期:B.C.2000~B.C.1700 カンチャナブリーのバーンドーンターペット遺跡 | ||||
| 544 (1) |
タイ族は多くの部族に分れ、広西省を中心に定住し、その地域は広東・湖南・貴州・云南付近まで分布していた。 | 漢代に仏教が伝わる。 | 弥生時代。 | |
| 768 (225) |
- | 蜀漢の丞相 諸葛亮,南征して四郡を平ぐ。 (234年、五丈原にて病死) |
前期古墳時代、邪馬台国卑弥呼の時代。 | |
| 800頃 (257頃) |
広西タイ族の大移動始る。
一部はサルウィン河に沿って移動し現ミャンマー北部に๑๙เจ้าฟ้า(十九王子国)を建てる。(1200年頃にビルマ族に破れ、その一部はインドのアッサム入る{アーホム族}⇒ไทยอาหม(アッサムにおけるタイ族の主流、現在殆どヒンズー化している。) 一部はミャンマー東北部のジャンに拠った。 これがเงี้ยว、ฉาน、ไทยใหญ่である。 コーン河に沿って移動した諸部族の中の一部は現ラオスの北部に๑๒จุไทย(十二タイ主国){ラーオ族}を建てる。 北ベトナムにหัวพันทั้งห้าทั้งหก(五首長国)を建てる。 云南の西南にลื้อ族はสิบสองปันนา(十二版田国[西双版納])を建てた。 | |||
| ナコーンスィータマラート時代 (4世紀~5世紀) | ||||
| 1192 (649) |
- | 657~902 น่านเจ้า 南詔国の時代 |
- | |
| 1280 (737) |
แถงにあった๑๒จุไทยのขุนบรม王は、二王子ขุนลอ、ขุนไชยพงศ์(สิงหนวัติ)をひきいて勢力を四方に拡大した。 クメールの支配下にあったラワー族(ละว้า,ลัวะ)の地に入り、ขุนลอは今のラオスのルワンプラパーンからヴィエンチャンを制圧してลานช้าง«象の広場国»を建設。 ขุนไชยพงศ์はメーコーンを渡って西進し、今の北タイのチエンセーンにโยนก(ヨーノック国)を建設したが、200年後にクメールによって滅ぼされた。 |
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| โยนก ヨノーク時代 (11世紀~13世紀) この頃にはタイ各地に都市国家を形成し始めていたタイ族が統一国家を形成。 | ||||
| 1661 (1118) |
พรหมมหาราชは、クメールから脱し、ชัยปราการの町を興しลานนาไทย(ラーンナータイ国)初代の王となった。 これが、中国史で言う 東は、ラオスのルワンプラパーン、ビエンチャンまで支配下に置き、南は今のサワンコロークまで版図とした。 |
宋 | 平安時代 | |
| 1720 (1177) |
พรหมมหาราช(プロムママハーラート王)没、ชัยศิริ(チャイシリー)即位。 | |||
| 1731 (1188) |
北ミャンマーにあったシャン族のขุนเสือขวัญฟ้า王が侵攻、ชัยศิริは町を焼き、ชัยบุรี(現チエンセーン)・ชัยนารายณ์(現チエンラーイ)の領主らと共にเมืองแปบ(現カムペーンペット)まで逃げ、 さらに南下して今のナコーンパトム付近に至り勢力の回復を図った。 (子孫がアユッタヤー王朝を興した) | |||
スコータイ時代 (1238~1438年)
พระเจ้าศรีอินทราทิตย์の三男で3代目となるพ่อขุนรามคำแหงの時、飛躍的に国力を伸ばし、領土は今のラオスからシンガポールまで広げた、また、タイ文字の制定、スリランカから上座部仏教を取り入れ国教とする、交易の自由など、内政、文化面で多くの実績を上げる。 北タイでは、เชียงใหม่やパヤオといったタイ族国家も形成されていました。 | ||||
| 1800 (1257) |
クメールの支配下にあったบางยางの領主พ่อขุน-บางกลางท่าวはเมืองราดの首長พ่อขุนผาเมืองと協力し、クメール領のスコータイを討って、チャオプラヤー平原の北にタイ族の宗主権を確立し、
พระเจ้าศรีอินทราทิตย์と号した。 (スコータイ王朝の始祖,治世:1800~1811年) 中国史で言う「暹国」で、この王統をพระร่วงと言う。 |
宋末 | 鎌倉時代 | |
| ? (?) |
พระเจ้าศรีอินทราทิตย์没し、次男のขุนบาลเมืองが即位。 | |||
| 1820 (1277) |
ขุนบาลเมือง没し、王弟のขุนรามคำแหง(ラームカムヘーン大王)即位。 | 元の世祖 | 鎌倉時代 文永14年 |
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| 1823 (1280) |
พ่อขุนรามคำแหง南征し、半島部のナコーンシータマラートを陥れ、さらに、マレー半島を縦断征伐してシンガポールに達した。 | |||
| 1826 (1283) |
พ่อขุนรามคำแหงはลายสือไทย(タイ文字)を創案。 (ラームカムヘーン大王の碑文として現在も残るが、この形式の文字はスコータイ時代で廃れてしまった。) |
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| 1828 (1285) |
シーサッチャナーラーイにマハータート寺を建立。 | |||
| 1829 (1286) |
- | 元朝は友好使節をタイに派遣。 | ||
| 1834 (1291) |
ลานนาไทย ラーンナータイ王国の再建を図っていたเมงราย(メーンラーイ)は部族を結集してเชียงใหม่に都し、
เมืองนพบุรีศรีนครพิงค์เชียงใหม่と命名し、パヤオの王พระยางำเมือง、南部スコータイのพ่อขุนรามคำแหงとタイ族同士の友好関係を保った。
พระเจ้าเมงราย [メーンラーイ王](1781-1860) ビルマはメークティを捕えてペグーに送り、チエンラーイ系のนางวิสุทธิเทวีขัตินารีを女王の位につけたが2121年没した。 ビルマ王は次男のนรธามังช่อを派遣してเชียงใหม่を治めさせた。 2225年ラオスのルワンプラパーン王家のองนก(องคำ)がランナータイの衆を煽動しビルマ人を追出して王位につきหอคำと称したが、2306年ビルマ軍が侵略し軍政を布いた。 | |||
| 1835 (1292) |
พ่อขุนรามคำแหงは碑文を作成。 | |||
| 1839 (1296) |
チエンマイ創建の年。「Wat ChiangMan」がメーンラーイ王によって建立された。 | |||
| 1842 (1299) |
カンボジアを討って属国とする。 大王の勢力は東は今のラオス、南はマレー半島、北はランナータイの国境まで及び、西は王の姫と駆落ちしたマカトーがビルマのペグーでพระเจ้าฟ้ารั่วとなったので、威令はビルマまでおこなわれた。 | |||
| 1843 (1300) |
สวรรคโลกに陶器工場を造らせた。 | |||
| 1850 (1307) |
700年にセイロンで作られたพระพุทธสิหิงค์仏像をナコンシータムマラートより招来。 | |||
| 1860 (1317) |
พ่อขุนรามคำแหง没。 大王の死後スコータイ王朝は、急速に力を失い、後のアユタヤ王朝に吸収されてしまいました。 |
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| 1861 (1318) |
พ่อขุนรามคำแหงの子、พญาเลอไท即位。 | |||
อยุธยา アユタヤ時代 (1351~1767年) 5つの王朝初期には東方のクメールを破り、北方のเชียงใหม่と戦い、16世紀中頃からはビルマ(現ミャンマー)と戦い、一時は属領となってしまいました。17世紀初頭、ナレースワン大王が出現、失地回復を果たし、中央集権制度を確立。 国際商業都市として、中国、インド、西欧と交易し、大いに繁栄しました。日本も朱印船貿易で鹿皮、鯨皮などを輸入していました。 チエンラーイ王朝 (1409~1767はスパンブリー王朝)
พระเจ้าศิริชัยเชียงแสน[Phracao Sirichai-Chienseen] 1856年อโยธยา(アユタヤー)の領主พระเจ้ากรุงไตรตรึงศ์の姫と結婚し翌年เจ้ารามと言う息子が生まれた。 |
元末~ | 南北朝~ | ||
| 1894 (1351) |
チエンライ系のウートーン候( รามาธิบดี ラーマーティボディー1世 )はスーコータイ・クメールの衰微を機にกรุงเทพทวาราวดีศรีอยุธยา(アユッタヤー)を建設、その後、417年間続き34人の王が治めた。(中国史では羅国と呼ぶ) | |||
| 1895 (1352) |
ราเมศวร ,ขุนหลวงพะงั่ว | - | - | |
| 1912 (1369) |
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| 1913 (1370) | บรมราชา
ขุนหลวงพะงั่ว ラーチャーティラート1世(治世:1913-1931年) アユッタヤー時代第三代の王。初代王(ウートーン)の妃の兄。 しばしば兵を興し北伐して、スーコータイ、ラムパーン、เชียงใหม่、カムペーンペットなどを攻め、暹国(スコータイ)を滅ぼし、羅国(アユッタヤー)の版図を拡大した。(p.1246) |
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| 1921 (1378) | - | - | - | |
| 1931 (1388) | ทองลั่น | - | - | |
| 1933 (1390) |
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| 1934 (1391) |
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| 1936 (1393) |
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| 1938 (1395) |
พระยาราม, พระรามราชาธิราช | - | - | |
スパンブリー時代 | ||||
| 1952 (1409) |
พระนดรอินทร์,อินทราชาธิราช | - | - | |
| 1967 (1424) |
เจ้าสามพระยาが即位してบรมราชาธิราช(ラーチャーティラート2世)(治世:1991-2031年)となる。 アユッタヤー時代第八代の王。 四本柱の大臣を立て文武の総理大臣を任命し、禄田法(サックディーナ)の制度を定め、スーコータイを完全にアユタヤーの支配下に置いた。 |
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| 1991 (1448) |
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| 2031 (1488) |
ไตรโลกนาถ、สมุหนายก、 สมุหกลาโหม、ศักดินา。 | - | - | |
| 2034 (1491) |
เชษฐาธิราช | - | - | |
| 2041 (1498) |
พิชัยสงดราม、 | - | - | |
| 2059 (1516) |
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| 2061 (1518) |
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| 2072 (1529) |
บรมราชา、อาทิตยวุงศ์、 หน่อพุทธางกูร、ชัยราชาธิราช、 | - | - | |
| 2076 (1533) |
รัษฎาธิราชกุมาร、 | - | - | |
| 2077 (1534) |
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| 2081 (1538) |
เชียงกราน、 | - | - | |
| 2088 (1545) |
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| 2089 (1546) |
ศรีสุดาจันทร์、เทียรราชา、
พันบุตศรีเทพ、
ท้าวศรีสุดาจันทร์ : チャイヤラーチャーティラート王(治世:2077-2089年)の妃で、ケオファー、シーシン両王子の母。王の没後11歳のケオファー王子を王位に就け、王弟のティアンラーチャーが摂政になったが、王妃はこの人を嫌って追出して出家させ、王宮内の仏堂係バン・ブットシーテープと密通して子を産んだ。妃はこの情夫を-に昇任させ兵馬の権握らせた。幼王ケオファーはクン・ウォーラウォンサーに毒殺され、5歳の王弟が即位したのもつかの間、新王は廃されてクン・ウォーラウォンサーが王位に就いた。しかし、即位後42日目に捕えられ処刑された。 แก้วฟ้า : 11歳で王位に就いたが、王妃の姦夫を除こうとして反対に毒殺される。 พระศรีศิลป์(1) : チャイヤラーチャー王(治世:2077-2089年)の王子。2089年兄のケオファー王子が11歳で王位に就いたが、母がバン・ブットシーテープ(後のクン・ウォーラウォンサー)と通じたので、彼を除かんとして逆に毒殺された、弟のシーシン王子が5歳で王位に就いたがクン・ウォーラウォンサーは間もなく新王を廃して自ら王位に就いた。が42日後に処刑される。 |
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| 2091 (1548) |
ขุนวรวงศาธิราช、ขุนพิเรนทรเทพ、 ขุนอินทรเทพ、แปร、 (สมเด็จพระมหา-จักรพรรดิ[càkkrà-phát,チャックラパット]) (ศรีสุรีโยทัย) สมเด็จพระศรีสุรีโยทัย | - | - | |
| 2098 (1555) |
สมเด็จพระสรรเพชญ์ที่๒ :「ナレースワン大王(2098-2147)」タイ国三大王の一人でアユッタヤー王朝中興の祖が生れる。 | |||
| 2099 (1556) |
ビルマのトゥングー朝が清邁を占領。ここに中国王朝西南土司の一つとして230年間続いた |
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| 2101 (1558) |
2101年メークティはビルマに屈して属国となったが2107年に独立を宣言。 |
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| 2106 (1563) |
ビルマ王บุเรงนองはピッサヌロークを攻め落すと養子という形式でนเรศวร(ナレースワン王子)を人質に取る。 | |||
| 2111 (1568) |
มหินทราธิราช | - | - | |
| 2112 (1569) |
アユッタヤーが陥落。มหาธรรมราชาが王位に就く。
王女をビルマ王に妃として献じ2114年นเรศวรを返してもらった。 王子は副王に任ぜられ、ピッサヌロークにあって北部を統治するよう命じられた。 (当時タイはビルマの属国の立場であった。) |
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| 2124 (1581) |
นันทบุเรง : ビルマ王ブレーンノーンの子。13歳の時に父王に随ってアユッタヤーに侵攻。2124年ホンサーワディーの王となり、2127年がら3年連続でタイに攻込んだがナレースワン大王に撃退され2133年には大軍を擁して副王に攻込ませたが、副王が騎象戦でナレースワン大王に斬殺されて兵を引いた。2143年毒殺される。 | |||
| 2127 (1584) |
นเรศวรはビルマに進撃しタイの独立を宣言する。 シッタン河に至ってビルマ軍の先鋒大将を銃で射殺した。 เมืองแครง-เมืองแดรง? |
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| 2130 (1587) |
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| 2133 (1590) |
สมเด็จพระสรรเพชญ์ที่๒父王の死により35歳で即位。 ビルマの副王が来攻したが、大王は出陣してスパンブリーで撃破。 |
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| 2135 (1592) |
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| 2147 (1604) |
大王はビルマ軍を討つべく出陣したが、เชียงใหม่北部のเมืองหางで病を得て陣没。 | - | 江戸時代 | |
| 2148 (1605) |
大王没し、王弟เอกาทศรถが即位。 大王と共に出陣し武勲をたてた。 内政面では労役に代えて諸種の税制を設け、多くの寺院仏像を建立。 | |||
| 2150 (1607) |
使節をオランダに派遣。(タイ使節がヨーロッパに赴いた最初) アユッタヤーの南にオランダ人村ができ交易に従事。 |
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| 2152 (1609) |
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| 2155 (1612) |
英人が来タイ、アユッタヤーとパッタニーで商業活動が許された。 | |||
| 2156 (1613) |
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| 2163 (1620) |
พระศรีศิลป์:2エーカートッサロット王(治世:2148-2163年)の王子。 兄のスタット王子が毒を飲んで自殺したのでเจ้าฟ้าศรีเสาวภาคย์(シーサオワパーク王子)が王位に就いたが、1年2ヶ月後出家していた異母兄ศรีสิลป์(シーシン王子)が還俗してして王宮を襲い、王を捕えビロードの袋に入れ白檀の棒で殴り殺させ王位に就きソンタム王(治世:2163-2171年)となった。 เจ้าฟ้าศรีเสาวภาคย์(アユッタヤー時代第22代王) (治世:2163年)エーカートッサロット王の王子、異母兄ศรีสิลป์(シーシン王子)とチャムーン・シーサオワラックに捕えられ白檀の棒で撲殺された。シーシン王は即位してソンタム王となり、チャムーンは副王となったが7日後に病没した。 |
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| 2164 (1621) |
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| 2167 (1624) |
ออกญาเสนาภิมุข(山田長政) | |||
| 2170 (1627) |
พระพันปิศรีศิลป์(:3), พันปิศรีศิลป์ソンタム王の弟、ソンタム王の没後の王位を予定されていたが、プラヤーシーウォーラウォン(2年後に王位についてプラーサートトーン王となった)に追出され、2度のクーデターを試みたが成功せず、2170年捕えられ処刑された。 |
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| 2171 (1628) |
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| 2173 (1630) |
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| 2178 (1635) |
- | - | - | |
| 2198 (1655) |
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| 2199 (1656) |
สมเด็จพระ, ศรีสุธรรมราชา:スィースタムマラーチャー王 アユッタヤー時代28代の王、(治世:2199年)プラーサートトーン王の弟。王の没後長男のチャオファーチャイが即位したが、新王の異母弟ナーライ王子は兄王を捕えて殺し、叔父のスタムマラーチャーに王位を献じ自らは副王になった。在位3ヶ月で新王は副王と不仲になり、内戦の末、副王はスタムマラーチャー王を捕えて処刑し自ら王位に就いた、これがナーラーイ王である。 |
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| 2204 (1661) |
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| 2206 (1663) |
- | - | - | |
| 2207 (1664) |
- | - | - | |
| 2208 (1665) |
- | - | - | |
| 2216 (1673) |
- | - | - | |
| 2218 (1675) |
- | - | - | |
| 2228 (1685) |
- | - | - | |
| 2230 (1687) |
- | - | - | |
| 2231 (1688) |
- | - | - | |
| 2246 (1703) |
- | - | - | |
| 2251 (1708) |
- | - | - | |
| 2264 (1721) |
- | - | - | |
| 2275 (1732) |
2275-2301年、ボーロムコート王時代 | - | - | |
| 2301 (1758) |
- | - | - | |
| 2303 (1760) |
- | - | - | |
| 2304 (1761) |
- | - | - | |
| 2307 (1764) |
- | - | - | |
| 2309 (1766) |
บางระจัน の民兵が奮戦してビルマ軍の侵攻を防いでいたが、敗れアユッタヤーはビルマ軍に包囲された。 | - | - | |
| 2310 (1767) |
14ヶ月間包囲され、4月7日の総攻撃でビルマ軍は城内に突入、王宮や寺院は焼払われ、アユッタヤーは滅亡し、町は廃墟と化した。 王は死亡し、タイ国は四分五裂し各地に群雄が割拠した。 |
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ธนบุรี トンブリー時代 (1767~1782年) アユタヤ王朝滅亡後、多数の政治権力が分立する中から、潮州系華僑と結びついたアユタヤの将軍タークシンが勢力を伸ばし、ビルマ軍を追い、トンブリーに新都を定めた。15年の治世の末、精神に異常をきたしたと言われる、1782年将軍チャクリーのクーデターにより殺され一族は誅殺される。 | ||||
| 2311 (1768) |
สมเด็จพระเจ้าตากสินมหาราช(2277-2325. 治世:2310-2325年)潮州系華僑で賭場徴税請負人の子。プラヤー・チャクリーの養子になりシン(宝)と名付けられ、5歳の時から寺に預けられ13歳まで勉学修業、その後養父は官界で出世させるため彼を王に献じた。 勤勉でベトナム・中国・インド語が堪能。
2317年トンブリー王が北伐してビルマよりเชียงใหม่を奪還し、総督を置いた。 |
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| 2321 (1778) |
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| 2323 (1780) |
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| 2325 (1782) |
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ラッタナコーシン時代 (チャックリー王朝) (1782年~現在) 始祖ラーマ1世が首都をバンコクに移したのでバンコク王朝、ラタナコーシン王朝とも呼ばれる。タイ王朝3大王の一人、チュラロンコーン大王(ラーマ5世)は、中央集権化と近代化を行い奴隷制を廃止し、絶対君主制を確立した。 | ||||
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ラーマ1世の治世 (1782~1809年) ラーマ1世はเจ้ากาวิละ ฌ เชียงใหม่を太守に任じ、พระบรมราชาธิบดี(2324-2358)と命名した。 |
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| - (-) |
ラーマ2世の治世 (1809~1824年) |
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| - (-) |
ラーマ3世の治世 (1824~1851年) |
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| - (-) |
ラーマ4世の治世 (1851~1868年) 1855年英国との間に自由貿易を原則とする修交通商条約を結び、その後、他の西欧諸国とも同様の条約を結ぶ。 |
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| - (-) |
ラーマ5世の治世 (1858~1910年) ラーマ5世はラーンナータイ王国を2435?(1892?)年6月3日に正式にタイ領に編入し、タイ王国のมฌฑลพายัพ(西北省)となり、省が廃止されるとเชียงใหม่県、チエンラーイ県、ラムプーン県、ラムパーン県、メーホーソーン県、ナーン県に分割された。 |
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| 2453-2468 (1910-1925) |
ラーマ6世の治世 (1910~1925年) イギリス留学、ボーイスカウト・赤十字の設立。 1912年、名字令を定める。 仏暦を使い始める。 国旗を現在の三色旗に変える。 チュラロンコーン大学の設立。 1921年、小学校令を定める。 1917年7月22日、第一次世界大戦に連合国側として参加。 |
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ラーマ7世の治世 (1925~19年) |
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| - (-) |
ラーマ8世の治世 (19~1945年)
ค่ายพิทักษ์บางบัวทอง太平洋戦争後在タイ日本文官が抑留されたノンタブリー県バーンブアトーンの保護キャンプ。 |
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ラーマ9世の治世 (1946~現在) |
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ไทยใหญ่(thaiyai) เชียงตุง(chiangtun) เชียงรุ้ง(chiangrun)
- King of Mang Rai Dynasty
- King of Chiang Mai Dynasty